笑顔でいること
僕は、いつもニコニコしているね、なんてよく言われる。
表情では、いつもよく笑っている。
嫌われたくない。嫌な顔をされたくない。
そんな、傲慢な思いを持ちながら生きてきた。
そんな自分がとても嫌いな時代があった。
本当は怒りたいし、泣きたいし、思いっきり落ち込みたい。我慢して笑っている自分がとても嫌いだった。
でも、現実社会ではどうしても笑って気分を害さないようにしなければならない場面の方が多い。特に、社会人生活においては。
社会人になってからは、この笑顔が役にたつ時がある。
でも、それでも。
やっぱり自分を偽るのが辛いことがある。本当の繊細で壊れかけの心を隠すことが辛くなる。生きていくためには本当に大切だと思っていても。
僕は、「この自分も素の姿」だと思うようにしている。
素の姿は決して一つではない。だから、大丈夫。
こうやって人に笑顔を振りまいてる僕も、素なんだ。
だから、本当の自分に悩んでいる人は聞いて欲しい。
生きている姿が素のままの姿なんだと。
実家住みということ
僕は実家住みだ。
「アラフォー独身実家住み男」
こう聞くとパンチが強いように思ってしまう。
でも、仕方ない。実家に住んでいて、ご飯も家事も親にやってもらっている。
一応仕事はしている。
なぜこうなったか。特に理由はない。
ただ、僧侶として実家の手伝いをしないといけないから。(実際そんなに多くない)
という理由をつけている。
実際、一人暮らしできないこともないがめんどくさい。お金もたまらないからだ。
友人にも恋人にも一人暮らししたらいいやん、と言われることが多い。
しかし、なぜかしっくりとこない。
意地で一人暮らしする必要が有るのだろうか?
よくわからない。
それに、なぜ、実家住みがこんなにもよくないという風潮があるのかも分からない。
自分が良ければそれでいい、ってゆうわけでもない気がする。親は近くにいて欲しいと思うのだろう。
人の期待に応えないように生きたいけど、でも、期待があるということは一種の救いなのかもしれない。それをプレッシャーと取るか、存在証明とするか。
なかなか難しい。
辛い悩みの共有
辛いことを共有できる人が欲しい。
そう思うことは当たり前なのか。そうじゃないのか。
僕は、昔から自分の辛さを人に言ってしまう。しんどい、だるい、眠い。
高校の時は、そんな自分が嫌で、こんなことを言うのをやめようと思ったこともあった。
でも、そう簡単に人間は変わることはできない。
やっぱり言ってしまう。今もだ。
でも、歳を重ねるにつれて、それは自分を守ることに繋がっているんだと思うことができた。自分の中で消化しきれない感情を言葉として出すことは、なかなか難しいし、周りを気にすることではあるが大事なことだと思うようになった。
自分の中で、自分にしか解決できない問題が大きくなって、自分を死に追いやることだってある。
仕事辞めたい、生きるの辛い、朝起きるの嫌や。ぐらい思ってたっていい。
「人は仕事辞めたいぐらいの大きな悩み一個あった方がええ。自分の中で小さな悩みしかないと、それは誰にも解決できんから大きくなって自殺にまで追い込むから」
(こういうニュアンスだから間違ってるかも)
なんかこれはとてもしっくりくることがあった。
大きな悩みの一つや二つあってもいい。それを他人と共有できるから。
その悩みが人と人をつなげることだってある。
そう思うと少し気が楽になった。
聖人になれなくても人の痛みや悩みにちょっとでもそばにいれる人間になりたいな、なんて思う。
自意識と友達に
何をしてても自分を意識せざるを得なくなったのかいつからだろうか。
僕は、特殊な家に生まれた。それによって、僕は常にその自分から逃げられないでいる。お釈迦さんみたいに、家でできるような勇気のある人間になれたらいいのに、なんて思ったことが何回もある。
そんなことを繰り返していると、自意識というものが大きくなってくる。自意識には限界がない。なぜなら、自分からは一生離れることができない。
『生きてるだけで、愛』(映画、原作は本谷有希子の小説)
のヒロインが、
「私は私から別れられない」
っていう言葉を放っていた。とても共感した。
僕は、僕から離れられない。どう頑張っても。
そんな自分と一生付き合っていかないといけない。そんな自分を否定すると生きるのが苦しいのは当然かもしれない。でも、苦しい時はそんなことは、全く頭にない。
当然のことが頭からポロッと抜け落ちてしまう。
「自意識バグってるね」
そんなことを言われることが最近多くなってきた。矢がいつも自分に向いてしまう。向けたくなんかないのに。
性格がそうさせたのだろうが、環境も一つの要因なのだろう。
そうやって誰かのせいにしないと自分が持たないこともある。
今日も僕は自意識とキャッチボールしながら生きている。
自分自身と仲良くなるために。
こたつの活躍
こたつで一日が過ぎていく。
今年度はこたつを出すかひたすらに迷った。
何かで、座るよりも立った方が勉強は集中しやすいときいて、前年度はこたつを出さないことで作品作りや勉強などが捗るかと思った。
でも、そんな甘いもんではなかった。こたつに入らない代わりに、布団に入ってしまい、そこで行動するということに重きを置いてしまった。机にいくものの、足や体が冷えてしまい30分もせずに布団に入ってしまう。
暖房をつければいいじゃないかという声も聞こえるが、暖房をつけると乾燥してしまい、頭もぼうっとする。結局布団に直行。
人間という生き物は、だらけるということに関しては、本当に得意なのだと実感した。
それにどんなことも自分に合う、合わないがある。
その反省?を踏まえ、今年度はこたつを出すことにした。
やはりこたつは快適だ。ダラダラはしてしまうものの、作業もしようと思えばできる。集中ができるかと言われれば、うん、とは言えないが、寒い寒いと言いながらやるよりも、十分集中はできる。
やはり、体の下半身を温めることは本当に大事なのだろう。
コロナの濃厚接触者になってしまったので、自宅待機。数日前にこたつを出していた自分に感謝したい。快適すぎる。
今は、パソコンとスマホさえあれば暇なんてものは全くしない。
暇を持て余すことが本能的に危機感があるかもしれないと思った。
恐るべし本能。
こたつに関して気をつけることといえば、温度設定だ。今年は、温度設定を間違わないように、一番低めにしている。熱くなって、頭がふわふわになってしまうと意味がない。
今のところ快適に、時に集中しながらできている。
冬の濃厚接触者の自粛期間。こたつ必須。
こたつはいい。一つ学んだ。(使えるかどうかは別として)
家ガチャ
「お前僧侶やのに煩悩まみれやん」
友達によく言われた。
小さい頃からレッテルが貼られている。これは、いい意味だけでなく悪い意味でも。
僕は聖人なんかではない。ただ、お寺に生まれただけ。日々その葛藤と戦ってきた。いや、今も戦っている。
学生の頃は、羨ましいと思われることが多かった。もう将来安泰やん、て思われることが多かったから。(別に安泰ではないけど)
必然的に、自分とは違う人間であるということで線引きがされていた。
「親ガチャ」という言葉がちまたで今、流行している。
僕の場合、「家ガチャ」なのかもしれない。どうしても変えることができない。
犬か猫で言ったら、猫なのだろう。猫は家に付くというから。
でも猫でもない。猫みたいに自由気ままには生きれない。犬のように、人に従うことが得意になってしまった。
猫でも犬でもない、煩悩にまみれた人間なのだ。
良くも悪くも僧侶の息子として、生まれてきた。
「家ガチャ」でお寺を引き当てた。
これは果たしてノーマルなのかスーパーレアなのか。これは、ソシャゲーのように始めから分かっているわけではない。僕自身が決めていかなければならない。
果たして答えは出せるのだろうか。
多分、一生答えは出せないと思う。
でも、僕はスーパーレアだと思えるようにしたい。もちろん、ノーマルだと思って逃げることもできる。それをしないのは、僕の中でスーパーレアである可能性を探っているから。自分の切り札のカードだと思って愛せるようにしたいから。
これからもっと学んでいきたい、なんて思っている。
ラジオ体操
元気良く行きましょう!
そんな声とともに、ラジオから音楽が流れる。音楽とともに、体操の仕方を元気な声の男性が教えてくれる。
それにつられて僕たちも体を動かす。
日本人なら大体の人がこのラジオ体操の音楽と体操を知っているだろう。
なぜ、ラジオ体操は朝にするのか。
目を覚ますため、元気に1日を始めるため、怪我をしないため。
多分どれも正解なのだろう。
体を動かすというのは、本来人間に備わっているものなのだろう。
体を動かさないことには、一日は始まらない。考えなくても、体がそうなっているのだから仕方がない。
軽快にピアノの音が鳴り響く。
ラジオから流れる音楽に耳を傾けながら、動き始める合図を待つ。
僕たちは今までやってきた、体に染み込んでいる体操を行う。
みんなと同じように、みんなからはぐれないように。目立たないように。
本当のラジオ体操はこうなのだ、と初めて知った。抑揚とキレが素晴らしい。
こんなにも綺麗に踊れるのなら、これはもう競技なのではないだろうか。
果たして、ラジオ体操の綺麗さを競う大会などは存在しているのだろうか。
この命題については、あえて考えないこととする。僕の想像の中でおもしろおかしくしたいから。情報が溢れる世界で、こういった遮断行為も大切なのではないだろうか。
ラジオ体操大会の一番みる点はなんなのだろう。やはりキレ?それとも、リズム感?いやはや、独自性?
僕は独自性が見たい。あれだけ定型化されたラジオ体操をどうやって崩していけるのか。少し見たい気がする。果たしてこれは、ラジオ体操に対する冒涜になるのだろうか。SNSに載せれば、拡散はされるが、晒し者にされて、袋叩きの的になってしまうのだろうか。
こんなネガティブになるのは夜だからだろう。
話は逸れたが、僕が職場でラジオ体操をしていたとき、先輩に「君硬いね」なんて言破れた時には、なぜか悔しかった。張り切ってやったつもりが、意図せずに敗北に終わった。こんな屈辱があってなるものか、なんて思った。
意識はしてなかったが、僕はラジオ体操はうまいものだと思っていた。思いこみというのは、時としてとても怖い。その次に踊るときは、必死で頑張ろうなんて思ったが、人間の意思とは弱いもので、次の時にはそんなことを忘れている。
いつか僕も、ラジオ体操マスターになれるかな。
将来の自分に問う。