僧侶も人間

僧侶の何気ない日常

諸行無常を感じた日

時々、無性にGoogleマップを見たくなる。この現象はなんなのか。
僕は、「マップ逃避」と名付けた。マップから想像できることは遥かに大きい。
平面の白地図だけでなく、航空図、さらに言えばストリートビューなどはたまらない。
行きたいところに、画面一つで行けてしまう。快感に似た、一種の遊びなのだと思う。
僕は、さらにこれを「どこでもドアへの中継ぎ」とも呼ぼうと思う。
Googleマップの次はどこでもドアだろう。
どこでもドアまでの道のりはとてつもなく長いと思うが。皮肉なことに(笑)

 

マップ逃避でも、見たくないものを見てしまうことも多々ある。
その悲劇は、仕事の休憩中、Googleマップを開いた時に起きた。

 

社会人の休憩は時間が限られているし、なぜか窮屈だ。
僕はどうしても、大学生の頃の青春を体の中に浸透させ、昼からの仕事の活力にしようと意気込んだ。そんな時に限って良くないことは起こる。
スマホを取り出し、Googleマップのデフォルトの航空図を開く。自分の働いている場所を長く見たくないから、すぐに検索ボタンを押す。大学のあった県を検索し、大学の周りを調べる。
大学を卒業して以来、付近に行った記憶はあまりない。ますます、ウキウキ感が増してきた。
だけど、大学をストリートビューで見るのは野暮すぎて、気が進まない。
だから、僕は自分の働いていたバイト先を見ることにした。初めてアルバイトをした場所だ。
検索はせずに地名からスクロールして追っていく。ストリートビューの画面にし、大体この辺りだと検討をつけたところに黄色い人間を置く。

 

しかし、元バイト先が見当たらない。小道にあるわけではなく、大きな四車線の道沿いにあったはずだ。僕は何度も道の真ん中にある矢印をあっちこっちに動かす。
だが一向に見当たらない。ようやく元バイト先隣にあった、古びたラーメン屋は見つけた。しかし、どう見てもそこにあった僕の元バイト先の面影はない。一回画面を平面に戻し、元バイト先の名前を打ち込む。しかし、出てくることはなかった。代わりに、元バイト先の位置を押してみると、飲食店だったそこは、車やバイク用品のお店になっていた。
そのお店の中の写真を見てみると、建物としての少しの面影はあるものの、全く別のものに様変わりしていた。
あー、ここの掃除したなー、とか、ここで怒られたよなーとか。この感情を一言で表すなら、『エモい』なのだろうが、そんな簡単な一言で表せられないぐらい複雑な気持ちだった。
なぜなら、あわよくば食べに行こうとすら思っていた。

 

不幸というのは、目に見える。しかし、幸せは目に見えづらい。
なんて、テレビで言っていた気がする。本当にその通りだと思った。この出来事を不幸というかは別の話として。
時間というのは、知らぬ間に、僕たちの気付かぬところで流れてしまっている。

 

諸行無常」というのは、お釈迦さんの時代から言われている。現代になっても、真理というのは変わらないものだと思い知った。
ここに残っているのは僕の中にある、僅かな記憶だけのようだ。それも、自分のいいように書き換えられた捏造記憶。
誰かに話したくて、すぐに話した。僕の感情がしまわれてしまう前に。

 

その飲食店の後に働いた、塾は空き家になっていた。看板もなく、ただ売り物件になっていた。
この話は今はしないことにしておきます。(長くなりそうなので)

 

変わるにあたっては、僕の見えないところで様々な物語があったのだろう。多分ではなく、絶対そうだ。なにごとにも物語があって、ドラマがある。
それを言葉にするかしないか。僕は、僕の中にあったドラマを形にしただけのことだ。
色々な思いを抱えながら、そっとスマホをしまった。

敏感な僕の話

僕は、昔から色んなものに敏感だった。

 

大きな音がすると、よく泣いていたと親から聞いた。

その典型例が、花火大会だ。僕はその光景を少しながら覚えている。

地元の花火大会。両親に連れて行ってもらった。当時まだ、僕は小学校の低学年だったように思う。

こんなお祭りは大体、駐車場から距離がある。近くの駐車場がいっぱいだから、遠くの駐車場から歩いてくるのだ。

とてもワクワクしながら、舗装されていない草まじりの道を歩いていく。足元には少し伸びた雑草や小石が混じり、丁寧に歩かなければ転けてしまう。

遠くでは、賑やかそうな声。屋台の明かりが、僕の胸をワクワクさせている。

屋台の香ばしい香りが近づいてくる。焼きそば、イカ焼き、りんご飴、綿菓子などの食べ物。お面、おみくじ、射的。好きなゲームや欲しかったエアガンがたくさん並んでいる。全てが、僕をファンタジーの世界に連れて行ってくれる。

僕にとって、夏はこのようなイベントがあることが大好きにさせてくれる。

花火大会。それは、夏を象徴させるようなイベント。

 

しかし、小さい頃の僕は少しだけ、みんなと感じ方が違っていた。

花火のカウントダウンが始まる。

爆音とともに、火を伴った花が夜空に咲く。そして、立て続けに何発も何発も真っ黒な空に花が咲き誇る。手に持ったかき氷を溶かしながら花火を見上げる。大きな歓声に火薬の匂いが混じった空間が一気に夏を演出する。

 

そんな時、僕は大声をあげて泣き始めた。大きな音が耳の中に入ってくる気がして。

体の中を蝕んでいる気がして。

そこからの記憶はあまりない。多分ずっと泣いていたのだろう。

親がそんなことを言っていた気がする。

 

大人になるに連れて、花火が怖いと思うことは無くなった。高校生になった僕は、好きな女の子が浴衣でいるんじゃないかなんて思いながら友達と花火大会に出かけた。

今では花火が見たくてたまらない。この御時世で今年も花火が見れるかどうか分からないが。

 

怖かったものが怖くなくなる。それが大人になっていくことかもしれない、なんて思った夜。

僕は、自分の中の子供を置き去りにしてしまったのではないだろうか。

そんな子供を拾い集めて、まだ僕は大人になっていくのだろう。

 

今年もどこかで大きな音を立てながら夜空に花が咲く。